北条五代で一番好きなのは

日本史

後北条氏五代の中で知名度が高いのは、北条早雲北条氏康ですよね。

一時は無能と言われていた北条氏政ですが、最近は評価が見直されて後北条氏の最大版図を築いた点が評価されるようになってきています。

しかし私が一番好きなのは北条氏綱、二代目ですね。

北条氏綱

北条氏綱の知名度が低いのは、初代と三代目が有名すぎるからです。

はっきり言ってかなり優秀です。創業者が優秀でも二代目でこけてしまうのはよくあります。氏綱はしっかりと御家を守っただけでなく発展もさせています。

知名度は低いですが、趙有能です。

北条氏綱はなぜ知名度が低いのか

北条氏綱の知名度が低いのは、初代と三代目が有名すぎるからです。

北条早雲

初代の北条早雲は昔は一介の素浪人から、伊豆、相模を平定した戦国大名の走りと言われてきました。しかし近年の研究の結果、室町幕府内の有力な家来だったことがわかってきています。

名前も北条早雲と名乗ったことはなく伊勢盛時、伊勢宗端と呼ばれることが多くなっていますが、便宜上、北条早雲で統一します。

室町幕府の命令を受けて伊豆の堀越公方を討伐した北条早雲は大森氏、三浦氏を滅ぼして伊豆、相模を平定して、北条氏の基礎を築き上げました。

経緯は変わってきていますが、戦国大名の走りとして、北条早雲の知名度は絶大です。

北条氏康

北条氏康も名将ですし、河越夜戦の活躍など、歴史好きには有名です。

しかし、北条氏康の知名度には二人の武将が大きく関わってきます。ご存じ、武田信玄上杉謙信です。

武田信玄とは、はじめは三国同盟による同盟相手として、後に信玄の駿河侵攻後はライバルとして戦うことになります。

上杉謙信とは、最後に同盟を結びはしますが基本的には常にライバル関係にありました。

両者とも、北条氏の本拠の小田原城を攻めていますが撤退しています。こういった戦国大名でも知名度有数の二人と互角に渡り合ったことで、北条氏康は知名度抜群です。

北条氏綱の功績

勢力拡大

北条氏綱の功績としては、順調に勢力拡大したことにあります。伊豆、相模から武蔵に進出、江戸城や河越城といった関東有数の城の制圧に成功しています。更に下総方面にも勢力を及ぼし、後の北条氏康の勢力拡大の礎を築いています。河越城と江戸城の制圧って、今の私たちが考えるより遥かに偉業だったと思うんですよね。

さらに今川家とは花倉の乱の後、今川義元が不義理を働いて(同盟国の北条氏に断りもなく、勝手に武田家と同盟うぃ結んでしまいます)怒った氏綱が、駿東地域を制圧してしまいます。

こうして関東において、着々と地盤を築いていきます。

北条への改名

二番目が北条氏への改姓です。関東では新参者扱いだった伊勢氏から、鎌倉幕府執権北条氏へと改姓を行ったことで、周囲に受け入れられるようになりました。諸説ありますが、氏綱の妻の家系が、鎌倉幕府執権北条氏の流れだったといわれています。

また朝廷からも左京太夫という、執権北条氏と同じ官職をもらうことによって、家格の上昇も行っています。

鶴岡八幡宮の再興

里見氏の鎌倉侵攻によって、鶴岡八幡宮も焼け落ちてしまったのですが、氏綱によって再興がなされています。氏綱の代には完成しなくて、氏康の代に完成しています。

関東の武家にとって、信仰厚い鶴岡八幡宮を復興することによって、北条家の地位の上昇も行っています。

氏康に送った教訓

北条早雲も氏綱に教訓を残していますが、氏綱も氏康に教訓を残しています。五か条の訓戒と呼ばれています。

これが何より素晴らしいと私は思っています。勝って兜の緒を締めよも起源はこの教訓からきています。

ちなみに私が好きなのは、人には捨てるような者はいないので、家臣、領民を慈しむこと(意訳)という教訓です。適材適所に人を使うように、能力を発揮できないのは遣う側が悪いんだよと言っているんですね。この時代にこういった考えを持っている点が、私が北条氏綱を評価するところです。

多分、すごい人間性が高い人だったと思うんですよね。今でも上司にしたい人ナンバーワンになれるんではないでしょうか。

北条五代

なかなか物語が少ない北条氏綱ですが、火坂雅志さんが「北条五代」という小説を書いて期待していたんですが、二代目に関する部分は少なくて、ちょっとがっかりしました。

最近は北条早雲について、今の研究に基づいた小説も多くでています。「新九郎奔る!」といったマンガもあります。

いつか北条氏綱も主役の座を射止めてほしいですね。

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