過大評価の戦国大名といえば

日本史

先日、脚本家のジェーム三木さんがお亡くなりになりました。謹んでお悔やみ申し上げます。

さて、ジェームス三木さんと言えば数々のドラマの脚本を書いてきたわけですが、中でも傑作といえば、大河ドラマの「独眼竜政宗」ではないでしょうか。

私も小さいころに夢中で見ていた気がします。当時小学生くらいだったと思いますが。これによって「伊達政宗」の知名度もグッと上がったのではないでしょうか。

伊達政宗が過大評価される原因

この伊達政宗って、典型的な過大評価の戦国大名です。もっと早く生まれていたら天下統一できた。奥州統一した、知らない人はこれによって騙されてしまいますよね。

そもそも昔の歴史教科書がひどいんですよね。私の記憶が間違っていなければ、昔の戦国大名の勢力図で奥州は伊達氏の勢力図になっていました。その範囲って青森県、岩手県、宮城県、福島県なんですよね。確かに東北地方の太平洋側は奥州、日本海側は羽州といわれているので、間違ってはいないんですが。伊達氏の勢力って、その一部なんですよね。

あの勢力図をみてしまったら、奥州統一を成し遂げた伊達政宗すごいってなりますよね。

伊達氏

伊達氏自体は名門一族です。もともと室町幕府の奥州探題(室町幕府の役職のひとっ)は斯波氏(足利一門で三管領の家柄)の流れをくむ大崎氏でしたが、鎌倉時代からの御家人である伊達氏が勢力拡大して奥州探題となるようになりました。

順調に勢力を拡大していた伊達氏ですが、伊達稙宗(政宗の曽祖父に当たります)の時代に御家騒動が起こります。伊達稙宗は奥州の各家に婚姻政策を仕掛けて、伊達氏の勢力拡大を行っていたのですが、この政策をなどを巡って、息子の伊達晴宗と争うようになります。これに奥州の各家も加わって大きな騒動となったのが天文の乱です。

最終的には稙宗が隠居することになり影響力をなくして騒動は一応終結するわけですが、この騒動によって伊達氏の勢力は衰退してしまいます。

その後、晴宗の息子、伊達輝宗が家督相続して、その息子伊達政宗の登場のなります。

ここら辺の家督相続の話は、「独眼竜政宗」みると面白いし、わかりやすいです。

伊達政宗の本当の勢力図

伊達氏の勢力は現在の宮城県の一部でした。ここから伊達政宗が勢力を広めたのは事実です。会津の芦名氏を摺上原の戦いで破り、福島県から宮城県、山形県の一部、岩手県の一部にまで影響を及ぼすような戦国大名になります。

しかし、この時、西では北条氏以外をすべて勢力圏内においた豊臣秀吉がおり、到底この勢力で対抗するなど無理な話でした。

現在で考えても東北地方の一部の勢力で、関東以西と勢力争いして勝てるなんて考えられないと思いますよね。ここで豊臣秀吉に屈服して、勢力拡大は終了です。

ちなみに大河ドラマでは豊臣秀吉を勝新太郎が演じており、この時の伊達政宗との面会シーンは痺れるものがありましたね。

東北地方全体でいっても津軽地方には津軽為信、岩手県のあたりは南部氏の支配地域、そしてお隣の山形県には最上義光がおり、奥州統一なんて全然遠い状況でした。

早く生まれていたら

ちなみに早く生まれていたらという話ですが、そもそも常陸の佐竹義重も強敵ですし、越後の上杉謙信、関東に進出したら北条氏康、そこから武田信玄ですよ。早く生まれても絶対天下統一なんか絶対無理ですよね。

その後の伊達政宗

豊臣秀吉に臣従したものの、征服した蘆名氏の領土は没収されてしまいます。その後は豊臣政権の一大名としてなんやかんやと色々ありながら過ごしていきます。

そして、関ヶ原の戦いで最後の勢力拡大の機会が訪れるわけです。この時、徳川家康から百万石のお墨付きをもらっていたという話です。(自力で勢力拡大したら)上杉領への侵攻を計画していた伊達政宗ですが、予想外に関ヶ原の戦いが早く決着してしいました。その結果、お墨付きが与えられた土地の奪還が間に合いませんでした。また同じ東軍の南部領に対しても工作を仕掛けており、こちらも家康の怒りを買ったといわれています。

こうして最後の野望も砕け散り、初代仙台藩主として、百万石には届かないまでも外様大名としては有力な大名して生涯を閉じます。

確かに優秀ではあるが

確かに優秀な人物です。伊達氏をきっちりと後世につないで、それなりに所領も増やしていますから。

でもそこまでなんですよね。戦国大名としては天下を狙えるとかいうレベルではなく、地方の優秀な大名の一人といった感じで、エピソードが盛られた結果、歴史好き以外では、過大評価になってしまったんですよね。

でも大河ドラマの独眼竜政宗は間違いなく傑作なので皆に見ていただきたいです。


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